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リカルド・マヨルガ 対 オスカー・デ・ラ・ホーヤ戦(リカルド・マヨルガ たい オスカー・デ・ラ・ホーヤせん)は、2006年5月6日にアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナで開催されたプロボクシングの試合。オスカー・デ・ラ・ホーヤはバーナード・ホプキンスとのミドル級歴史的4団体統一戦に敗れて1年8ヶ月ぶりに復帰してベストウェイトのスーパーウェルター級に戻しての再起しての試合。リカルド・マヨルガは世界2階級制覇を達成しての今回の試合が初防衛戦。限界説が漂う中の試合だったが、ブランクがあると見違えるような試合を見せデ・ラ・ホーヤの劇的な復活を遂げた〔<ボクシング>デラホーヤがマヨルガを降して王座に返り咲く! - 米国 「AFPBB News」 2006年5月7日〕。イベント名は『デンジャーゾーン(立ち入り禁止エリア)』。この試合はHBOがペイ・パー・ビューで生放送した。『デンジャーゾーン』のキャッチコピーは後に2013年12月14日にサンアントニオアラモドームで行われるエイドリアン・ブローナーVSマルコス・マイダナとの対戦で使用された。 ==試合成立まで== デ・ラ・ホーヤの前回の試合は2004年9月18日にこの試合と同じ会場で行われたWBA・WBC・IBF世界ミドル級スーパー王者バーナード・ホプキンスとの4団体統一戦だったがWBO王者のデ・ラ・ホーヤは手数を駆使して対抗したが、ホプキンスの圧力に屈し、ボディアッパーでキャリア初の屈辱的なカウンテッドアウトで敗れた。対するホプキンスは1993年にIBF王座を獲得してから11年間ベルトを死守し4団体統一した。 デ・ラ・ホーヤや敗北後ゴールデンボーイプロモーションズの社長としてCEOのシェイファーを補佐しながら好カードを提供しトップブランドにしていった。デ・ラ・ホーヤは会見で「いずれ重要な発表があるから待って欲しい」と話し、デ・ラ・ホーヤなりにキャリアプロモーターと並行しながら残りのキャリアを進めていくことを発表した。 2005年にデ・ラ・ホーヤが復帰計画を発表。「かつて王座を統一したスーパーウェルター級に戻る」と話した。復帰に対してデ・ラ・ホーヤにとっては思い入れがある階級だった。 デ・ラ・ホーヤのスーパーウェルター級での試合を振り返ると2001年6月23日にWBC王座をハビエル・カスティリェホとの試合でカスティリェホの強打を封じトーマス・ハーンズとシュガー・レイ・レナードに続く3人目の5階級制覇を達成した。 1年後の2002年9月24日にWBA・IBA王者のフェルナンド・バルガスとの統一戦でバルガスの強打に苦しめられながらも11回にダウンを奪って最後は連打をまとめてのストップ勝ちでWBA王座とIBA王座を吸収した。 2003年5月3日に歴戦の元IBF王者のルイス・ラモン・カンパスと対戦。アウトボクシングを生かしてショートフックを武器にするカンパスを翻弄し得意の接近戦に持ち込ませず、フックとコンビネーションで顔面を切り裂き、タフなカンパスの心を折りセコンドのストップ要請で勝利した(なおカンパスは2016年1月に引退。デ・ラ・ホーヤとの対戦を最後にタイトル挑戦となり表舞台の引導を渡した結果になっている)。 その年の9月13日、シェーン・モズリーと対戦するが3者共113-115の僅か2点差で陥落した。 2006年1月、ゴールデンボーイプロモーションズはデ・ラ・ホーヤとシェイファーCEOを交えて会見を開き、WBC世界スーパーウェルター級王者リカルド・マヨルガに挑戦すると発表した。 マヨルガはウェルター級を制して(WBA王座で)その後WBC王座を吸収するが、IBF王者コーリー・スピンクスに接戦ながらも2度の減点に泣き3団体統一に失敗した。その後デ・ラ・ホーヤとは違いスーパーウェルター級を飛ばしてミドル級に転向したが、元3階級制覇王者フェリックス・トリニダードとのミドル級転向試合でトリニダードの強打を浴びてトリニダードのド派手な復帰ばかり目立ってしまう結果になった。 急激な階級アップを反省したマヨルガはスーパーウェルター級に落とし、元IBF世界ウェルター級王者ミケーレ・ピッチリーロと対戦。技巧派で好戦的なピッチリーロに強打を発揮。一方的な試合展開となり、完封する形で2階級制覇を達成した。 2月に放送するHBOとゴールデンボーイプロモーションズCEOのシェイファーとデ・ラ・ホーヤ、ドン・キングとマヨルガが並んで会見を開くがフェイスオフの時にマヨルガが押す素振りに続きデ・ラ・ホーヤにビンタを振るうとデ・ラ・ホーヤは激昂。あわててキングが止めに入る場面があった。 その後CM撮影の時にデ・ラ・ホーヤがベルトを触ろうとするがマヨルガが手を振りほどき、「俺のベルトに触るんじゃない!俺がチャンピオンだからな!」と語気を強めた。 最初のプレゼンでマヨルガが「バッシュ!」と罵倒。その後ホプキンスに負けたことを取り上げてデ・ラ・ホーヤを挑発。デ・ラ・ホーヤも負けずにマヨルガを非難したが、結局マヨルガがデ・ラ・ホーヤの私生活のスキャンダルと家族を馬鹿にしたためまたしても乱闘騒ぎになり、関係者が引き離し記者会見を打ち切る事態にまでなった(その後の会見でも何度も乱闘寸前まで騒ぎがあった)。 ドン・キングはファイトマネーが低いと撤退すると話したが、双方の代理人との話し合いでファイトマネーを増やすことで合意し、試合にゴーサインを出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リカルド・マヨルガ 対 オスカー・デ・ラ・ホーヤ戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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